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Urayama Akitoshi

『花神の都』陰陽師石田千尋の事件簿その3

『花神の都』陰陽師石田千尋の事件簿その3

千尋の言葉が終わらないうちに、
「生きていたって、生きてい……生きていて良いの?」
尚子の肩が震えだした。
「た、助けて……。助けてぇー。弘美はどこへ行ったの?」
弘美の名を呼ぶ尚子の叫び声に、小島は思わずうつむいた。
「小島君、逃げるな。しっかり見届けるんや。尚子さん、こんにちはっ!」
尚子は、全身で息をしている。
「いったい誰なの……。どうしてここにいるの?」
それはいまさらのように、千尋と小島に気がついた尚子の言葉だった。
「こんにちは、尚子さん。さあ、挨拶の返事をしてくれ。僕が受け止めたる。こんにちは」
千尋の言葉に、尚子はくうをつかむように両手を伸ばして助けを求めた。
「こ、こ……」
涙で顔をゆがませながら、尚子は絶叫した。
「こ、こんにちはぁーっ」
「心、預かった。陰陽師、石田千尋。全身全霊であなたの魂を救う」
さっと千尋が頭を下げた。コートの内側から素早く杓(しゃく)を取りだしていた。
「布留惠ゆらゆらと布留惠……」
千尋の呪文に、尚子の身体が反応し始めた。

『花神の都』第1章「陰と陽」より抜粋

著者回想/第2章の「京都の花」を執筆するために、豊臣秀吉と妻のねねの足跡を京都の街で探り訪ねて歩き回りました。東京行きの新幹線最終便の車内で、耳栓をしながら、ストーリーの構想を取材を頼りにノートに万年筆で書き続けていたのを思い出します。東京駅に到着しても構想を書き上げていなくて、駅構内のコーヒー店に飛び込んで、ノートにストーリーメモを書き続けた深夜でした。生と死と、街と花と、身体と心とがリンクする小説です。

『鬼が哭く』陰陽師石田千尋の事件簿その2

『鬼が哭く』陰陽師石田千尋の事件簿その2

携帯電話からは、先ほどスピーカーから発せられた、だみ声が聞こえてきた。
「こちらドクターヘリ機長の磯村だ。君たちの車は目視で見つけたが、海岸が暗くて、患者の位置が分からない。車を基点として方角と距離はどれくらいだ」
小島の誘導は的確だった。
「自動車を基点に国道128号線の九十九里方面を0時とすると、4時の方角。距離は三百メートル以内です」
中略
驚いたのは永井医師のほうだった。
「小島っ!小島じゃないか。お前どうして……」
「永井か!いや……お前こそどうして」
その言葉を飲み込むようにして、小島は患者を指さした。
「溺水から時間が経っているんだ。心拍もけいれんを伴って弱いし、呼吸も微弱だ。処置を急がないと」
中略
千尋は先に機内に乗り込んだ。
フルフルフルフル……。
プロペラは回転を続けたまま待機していた。
永井医師の言葉に小島は迷ったままだ。
「小島君、君が救った命やろ。まだ救いきれんかもしれん命やろ。責任を持つなら、君も乗せてもらえ」
千尋が、ヘリの機内から小島に大声をかけた。

『鬼が哭く』第3章「かげろう」より抜粋

著者回想/この作品を書くために、徳島県のかずら橋、山梨県の昇仙峡、千葉県の九十九里浜へ取材に出かけました。椎間板ヘルニアの手術後で、車椅子に乗ったり、ロフト杖を突いたりして、取材に駆け回りました。全3章のオムニバス小説です。例によってすべての話が第3章に結びつきます。ラストシーンはバッドエンドなのか、ハッピーエンドなのか、それはあなたの感想にお任せします。

『東京百鬼』陰陽師石田千尋の事件簿その1

『東京百鬼』陰陽師石田千尋の事件簿その1

「見えたか……」
千尋は指をゆっくりと降ろした。
「闇はな、やさしく魂を抱いてくれる場所なんや」
蛍よりおぼろげな光だった。よろよろと力弱く天空に昇っていく。
「森であれば、樹木の影の闇が霊魂をいたわり、やがて霊魂は樹木の枝先や梢、樹頂から神上りをしていく。霊たちは闇を求めているものなんや」
千尋は、ヒメヤシの枝を胸の前に握った。
「あの場所は、江戸時代には大名屋敷やったらしい。それが明治以降に公園となった。古い樹木がうっそうと茂っていた。しかし、開発の名のもとに土地は削られ、樹木は伐採されている。闇が失われつつあるんや」
宮崎は、千尋の顔から視線を移すと、東京の街を改めて眺めた。闇を探すように。

『東京百鬼』第2章「ブンゲンストウヒ」より抜粋

著者回想/小説デビュー作です。陰陽師の石田千尋と、秘書の小島幹大が主人公です。この作品は全5章からなるオムニバス小説ですが、すべての話が第5章に結びつく構成になっています。現代の陰陽師の緻密で大胆な除霊と、二人の珍道中をお楽しみください。

浦山明俊人生録⑧ –いま執筆者は、どうあるべきなのか –

57歳で就いたアルバイトの仕事は、ホテルの宿泊客のバイキング式朝食の食べ終えられたお皿や食器を、洗い場に運ぶ仕事でした。

イギリス式の教育を受けた僕は、ターンブル&アッサーの白シャツにトムフォードの黒蝶ネクタイをむすんで、姿勢を正して、笑顔で食器類を運んでいました。

とたんに、僕より年下と思われるオジさん主任から怒鳴られました。

「何を、偉そうに胸を張っているんだ。バイトボーイふぜいは、お客様と目を合わせないで、さっさと食器を運べば良いんだ」

「どうして笑っているんだ。だから仕事が遅いんだ。ニヤニヤしないで真面目な顔で働け」

おかしいな、と思いました。
欧米では服装と姿勢を正して、笑顔で宿泊客と接する。
僕の経験では、そうでした。

「目を合わせるな」「笑うな」というのは、かえって宿泊客に失礼です。

「これが、現代日本の働き方の基準になってしまっているのか」
と僕は、洗い場で怒鳴られながら、疑問符で頭の中がいっぱいになりました。

オジさんと僕のやりとりを聞いていた、副支配人が僕を手招きしました。

「浦山さん、あなたはクビです」

「ええっ!(コイツもそうか)」

「浦山さん、あなたは我がホテルで働くような人ではありません。経歴を調べさせてもらいましたが、あなたは作家じゃないですか。何があったのか分かりませんが、何があっても、あなたは小説を書くべきです。我がホテルで働く時間があったら、読者のために書いてください」

そして副支配人は言うのです。

「そして、いつの日か我がホテルに泊まりに来てください。お待ちしています」

なるほど、こういうホテルマンもまだ日本にはいるのだ、と思いました。

それでも、原稿料の下落で生活は窮状を極め続けています。

 

ビジネスとファッションについて講演

 

「スマホの普及が、ネット媒体が、ウェブが紙媒体を追いやったのだ」
と言う人もいます。

僕は「果たして、それだけが原因なのかな」と首をかしげます。

報道が、文化が、交流が、人としての在り方が、働くという生きがいそのものが、残念だけれど衰弱しているのではないか。マスメディアは犯人捜しをしている場合ではないと思うのです。

そんな時代に60歳を迎える僕は、これからも全身全霊で、求められるなら、ありったけの力を振り絞って、仕事をしていこうと思っているのです。

浦山明俊人生録⑦ – 小説家はゴールではなかった –

2006年3月に、初めての小説『東京百鬼』が祥伝社から出版されます。
僕は46歳になっていました。

その前から、ノンフィクションの書籍は世に出ていました。

僕の人生の目標は、小説家になることでしたから、夢はかなったことになります。

小説家としてデビューする年齢を僕はひそかに、計画していました。

陰陽道の占術で僕自身を占うと、25歳~45歳は大運天中殺なので、この期間に始めたことは破綻します。

天中殺とは「天が味方しない時期」です。空亡ともいいます。干支によって誰でも持っています。
十二支のうちの二支のどれかなのです。

僕は寅卯天中殺を持っています。寅年、卯年とか、寅の月、卯の月は「天が味方しない」のです。無理をして事を起こせば、その事は将来、破綻すると説かれています。

しかし実際は、運がない時期だと簡単に説明がつくものでもなく、天中殺の乗り切り方はその人の運命によって様々です。

大運天中殺は、120年のうちの20年間に巡ってくるものです。人間は120年も生きないですから、この20年間に遭遇しない人もいます。

僕は1983年(25歳)から2003年(45歳)までの20年間が、大運天中殺に見舞われる運勢だったのです。

なるほど30歳で出会って35歳で結婚しましたが、40歳で離婚を言い渡されています。

大運天中殺を自覚していたので、45歳以前に小説家としてデビューするのは意図的に避けていました。

小説『東京百鬼』の続編として『鬼が哭く』が出版され『花神の都』が『夢魔の街』が出版され、時代小説としては『噺家侍』が『かたるかたり』が出版されました。その他の寄稿、講演を数えたら、たぶんキリがありません。

小説デビュー作『東京百鬼』

 

2013年で55歳になるまでは、僕は全身小説家でした。
陰陽師も、医療ジャーナリストも、マスコミ対策コンサルタントも同時並行でこなしていました。

それなりに多忙で、年末年始も、ゴールデンウィークも、お盆も、クリスマスも、もちろん土日祝日も、たいていは仕事をしていました。

2014年か2015年あたりから、印刷媒体が手をつけられないくらいに失墜します。
僕は、かつては400文字原稿用紙1枚あたりの原稿料として4万円をもらっていました。
現在はテキスト6000文字を書いても2万5千円にまで原稿料は下落しました。

2015年の春には生活できなくなった57歳の僕は、アルバイト面接に落ちまくって、それでも都心のホテルのボーイに時給980円で雇われます。

浦山明俊人生録⑥ – 個人事務所イン-ストックは弟子養成所 –

1985年1月27日に、個人事務所であるイン-ストックを文京区本郷に構えました。

その頃には、僕には弟子が何人か入門していました。

小学生で教壇に立ち、高校で後輩の面倒をみて、朝日新聞社では教鞭に打たれた経験があったからでしょうか。
後進を育てるのは好きでした。

自分が食べられるかどうかギリギリの日常を過ごしていて、弟子を育成するのはリスクが大きかったです。

それでも弟子をとったのは、いくつか理由が挙げられます。

1つめは、弟子入り志願の連中の「どうしてもマスコミで活躍したい」という情熱にほだされたことでしょう。でも、それだけでは単なる僕の美談です。

2つめは、弟子入り志願の連中に原石として光るものがあった。その原石を磨いてみたいという僕の欲求です。
どんな人間に育つのだろうという弟子への興味です。

3つめは、自分を律することができるから。これが大きい。
弟子を育てるためには、まず自分がしっかりしていなければならない。自分が毅然としていなければならない。

自分が全力で仕事に立ち向かっている姿を見せなければならない。

個人事務所イン-ストックで執筆中

弟子たちの目に、しっかりとした浦山明俊を見せる。
そうすることで、僕は自分自身を律することができるのです。

まぁ、ときにはダメダメで、グズグズな浦山明俊を見せてしまうこともあるのですが。

イン-ストックは、文京区本郷から、文京区湯島へ移転し、さらに台東区東上野に移転して、イン-ストックは継続しています。

当初は弟子養成所みたいな事務所だったのですが、2000年2月に税理士にそそのかされて法人化してから、魅力的な人材が集まらなくなりました。

僕は一般常識だとか、社会のルールだとかに従ってはダメなんです。
小説家になったのは、どこか一般常識からは逸脱した僕の自己表現だったのかもしれません。