浦山 明俊 公式HP

Urayama Akitoshi

真夜中のベーシスト

北海道のベーシスト青年

彼の名前も、顔も思い出せません。

ベースのケースを背中に僕の家を出て行った朝のことをうっすらと思い出すばかりです。

その頃、僕は作詞家でした。いや作詞家気取りか。20歳でしたからね。
ということは、1978年あたりだったのか、あれは。

ハッちゃん。春日博文と出会ったのは、英会話学校でした。

「お前、何しているの?」

文学を仕事にしようと思っていて、小説や詩を書いていると答えたのでしょう、僕は。

そして書きためた詩を見せたのでした。

ハッちゃんは、プロの音楽家で『カルメンマキ&OZ』という伝説のロックバンドの作曲家でギタリストでした。音楽の世界では超有名人。

数日後には、僕の詩にハッちゃんが作曲をした歌が出来上がっていました。

内藤やす子が歌うという。これまた超有名歌手。

で、いつの間にか僕はプロの音楽業界に出入りするようになっていたのでした。肩書きは「作詞家」

赤坂の音楽スタジオで、収録があって、僕はブース(演奏家や歌手がいる録音室)の前のコントロールルーム(コンソールがあるミキサー室)にいました。

廊下からは、コントロールルームも、ブースものぞき窓から丸見え。
だから隠語で『金魚鉢』とその頃は呼ばれていたと記憶しています。

彼は廊下の外から、僕たちのいる録音スタジオを見ていました。

それこそ、両手を防音ガラスに貼り付けて、貧しい少年がニューヨークの楽器屋のショーウインドに飾られたトランペットを眺めているように。

僕が気がついて、彼をコントロールルームに招き入れたのだったか……。
その記憶すらない。本当に覚えていない。

彼は、興奮して、
「あのOZの春日さんですよね、ギター弾いている人。それに、うわぁベースは川上シゲさんだぁ。えっ、内藤やす子さんが今度はロックを歌うんですかっ」

そんなシーンがあったんだかなかったんだか。

覚えているのは、深夜に収録が終わって赤坂の街へ出たこと。

とっくに終電を過ぎていたこと。
彼がベースを背中に、僕の後をついてきたこと。
その頃は24時間営業のファミレスもネットカフェもなかった。

始発電車が走るまで、街を歩くか、道に寝そべるか。

僕は果たしてレコード会社が用意してくれたタクシーに乗ったのだったか。
自腹でタクシーをつかまえたのだったか。

彼は僕の後をついてきた。それだけは覚えている。
そして彼をタクシーに招き入れたんだったろうと思います。

僕は20歳の頃といえば、東京の下町の実家の四畳半に暮らしでした。

記憶では、いなり寿司を彼に食べさせた。

そこらへんしか覚えていない。

それから5年が過ぎた頃。 僕は作詞家をとっくにあきらめて、朝日新聞で記者をやっていました。

実家暮らしは続いていました。

真夜中に電話が鳴ったのです。

「あの……。浦山明俊さんですか?」

僕は疲れていたし、寝ぼけてもいた。

「そこに〇〇君はいますか?」

若い女性の声でした。

「いま〇〇君のお母さんが危篤で、すぐに北海道(帯広、釧路、小樽、旭川……?)に帰ってくるように伝えて欲しいんです」

ん……?。〇〇君って誰だ?。

「私は彼の幼なじみなんですけれど、〇〇君は音楽で成功して、日本だけじゃなく、世界に売れるロックバンドになって、お母さんにお金をたくさんあげるんだ。そう言って東京に行ってしまったんです。そのお母さんがいま危篤なんです」

どうして僕の電話(携帯なんて想像すらされていなかった時代の固定電話)を知っているんですか?

「〇〇君が私に手紙をくれたんです。そこには浦山さんのことが書いてあって“これで僕はプロデビューできる”って、浦山さんが作詞をしてくれるって。東京のアパートには電話がないから、これが浦山さんの電話番号だから、何かあったら浦山さんに連絡してくれって」

あっ!

僕は、そんな青年がいたのを思い出した。

「それで電話をしたんです。浦山さんだけが東京につながる唯一の連絡先なんです。本当に〇〇君はそこにいないんですか。明日、明日の朝に北海道に帰るように伝えてください。飛行機代は私が払うからって」

でも、僕は寝ぼけていたんです。

翌日の朝になって僕は『しまった』

と思いました。強く思いました。

電話をきるときに彼女の連絡先を尋ねるのを忘れた。

そもそも〇〇君は、あの5年前の夜に僕の部屋に数時間泊めただけで、それきり会っていない。

ああーそうだ、思い出した。断片的だけれど記憶が甦った。

「今度、俺たちの音源(曲のこと)を聴いてください。作詞をしてください」
「俺、ぜったいに成功する。カルメンマキとOZとか、RCサクセションとか、対バン(共演)しますよ。スタジオ代を稼ぐのに、昼間に建築現場でバイトしているんです」
「このフレーズどうですか」

そうだ、あの夜に。僕は疲れていたけれど、彼はいなり寿司を食べ終えて、僕の部屋でベースを弾いたんだった。

そして彼を始発電車に乗せるために、彼が不案内な下町の、地下鉄の駅まで送っていったんだった。別れ際に、僕は名刺を渡したんだった。

たぶん、何かあったら連絡しろくらいのことを言っちゃったんだ。
僕は20歳。彼は僕より年下だったのか、それとも年上だったのか。

僕は、いかにもプロの作詞家って雰囲気で20歳にしては大人びていたもんなぁ。

そして、それっきり会っていない。

しまった。幼なじみの女性の連絡先を聴かなかった。

〇〇君とは、連絡がつきましたか
〇〇君は、北海道に帰りましたか
〇〇君は、お母さんに会えましたか

そんな電話を彼女に返してあげるだけでも……。

いやいや、いつも僕はそうだ。

下町の人情だか、なんだか分からないが、他人のことに介入しすぎる。

優しくすることは、ときには残酷で、ときには無責任だ。

〇〇君の顔を覚えていません。名前も忘れています。

このコラムを書きながら、一生懸命思い出そうとするんだけれど、40年も前のことです。

受話器を握ったあの寝ぼけた夜に、彼女の連絡先を書き留めなかったこと。

それを僕は40年間ずーっと、後悔しているんです。

クリエーターにとっての風土は大事

東京人は東京を知らない

上京したばかりの人がなげきます。

「東京人は、道を尋ねても知らないと返事をして歩いて行ってしまう。冷たいのが都会人だ」

僕は、こう答えます。

「あなたが道を尋ねたのは、たぶんあなたと同様に、地方から東京に来た人です」

あるいは、こう答えます。

「東京に生まれ育った東京人は、自分の街を出ないから、他の街の道なんて知らないんです」

僕は浅草に生まれました。

そして三ノ輪という下町で育ちました。

 

渋谷に初めて行ったのは、大学受験のためで、その渋谷にある國學院大学に通う羽目になって、しげく渋谷をうろつくようになりました。

 

新宿も同様で、大学生になってから遊びに行くようになりましたが、お酒が飲めないうえに風俗に興味がない僕には、新宿はつまらない街でした。

 

大学を卒業してからは、渋谷にも新宿にも六本木にも、よほどの用事がない限り行きません。

 

東京は、町ごとがミニ独立国みたいなところで、自分の住んでいる町で、たいていの用事は済んでしまいます。買い物、外食、会合、祭り、初詣、そして住まうこと、暮らすこと。

 

小学校も中学校も自分の町にあって、徒歩で通えます。

 

僕にとって衝撃だったのは、地方に行ったときに、長距離を自転車通学している中学生を見たことでした。

 

広大な土地に、薄茶色に生えているものが稲で、米はそこから採れるということでした。

 

でも全国各地では、それが当たり前だと知ったときには、さらに衝撃を受けました。

 

はっきり言います。日本一の田舎者が東京人なんです。

 

知らないんですよ、他の街のことを、他の地方のことを。

 

たとえば職人や商人の家に生まれて、そのまま跡継ぎになった僕の同級生は、中野、荻窪、吉祥寺がどこにあるのかを知りませんし、世田谷区や杉並区が高級住宅地だとは、噂でしか聞いたことがありません。東京のあっち側を、知らないのです。

 

都内の会社に就職した友人は、かろうじて勤務先の街と、渋谷、新宿、六本木、池袋、銀座、日本橋に「行ったことがある」という程度です。

 

この文章を読んで、驚いている人がいるかもしれませんが、うなずいている東京人もいるでしょう。

 

「浦山君はさ、東京出身なんでしょう。どこの街?」

と、大学の同級生の地方出身の女子から尋ねられて、

「浅草」

と答えたときに、

「なーんだ。浅草かぁ。新宿とか銀座とかの都会だと思っちゃった。損したぁ」

と返答されたときには、がっかりしました。

 

東京=大都会 東京=繁華街 東京=お金持ち というイメージがあるらしいですね。

 

いまでこそ、浅草は観光地として復活しましたが、僕が大学生の頃はさびれていて、午後9時を過ぎると店舗は閉まって、夜道には犬が一匹、さびしげに歩いているような街でした。

 

その頃の渋谷も同様で、午後9時にはセンター街のシャッターはすべて閉じられていました。

 

現在の昼の浅草や、夜の渋谷を眺めると、隔世の感ありです。

 

僕が修学旅行以来、関西を訪れたのは25歳のときでした。

兵庫県の三田市にナビゲーションシステムの取材に行ったのです。

 

それからは全国各地、世界各地に出向きました。ほとんどが取材のためです。

日本で行ったことがない都道府県はありません。

 

生まれ育った風土からしか文化は生まれない

 

日本一の田舎者である東京人は、自分の町の文化しか知りません。

 

自分の町の文化。僕にとってのそれは「寄席」だったでしょう。

 

「落語は、笑点や、NHKの早朝の番組で観ているから、知っているよ。ユーチューブでも観られるしね」

と決めつけられると、僕はがぜんとして、

「それは違う。落語は、客席と高座に上がっている噺家とが共鳴して作り上げるライブだ」

とムキになります。

 

寄席まで、引きずり込んでやりたくなります。

 

でも江戸落語って、しょせんは東京の郷土芸能なんですよね。

 

僕の文体は、あきらかに落語の影響を受けています。

 

それは作家の持つ、風土ってやつです。

 

僕にとっての風土が落語だというお話しです。

 

青森に津軽三味線があるように、京都に祇園祭があるように、島根に石見神楽があるように、徳島に阿波踊りがあるように、福岡に博多どんたくがあるように、沖縄にエイサーがあるように。

 

自分が生まれ育った土地の風土をベースに、文化を大切にして根っこを生やさなくてはなりません。

 

小説でも、イラストでも、絵画でも、音楽でも、ダンスでも、自分の風土を大切にしている人は成功しています。

 

僕は東京のこっち側に生まれた者として、東京のこっち側の風土を常に胸に抱いて、作品を書き続けていきたいと思っています。

 

たとえ転勤族の家庭で、故郷がないと思っていても、その土地の空気を吸い込んだときに懐かしいと思えたら、そこがあなたの故郷なんですよ

浦山明俊

【文章ノウハウVol.9】読んだ直後から文章が上達する プロの小説家が伝授する作文術・練習法その1「800文字作文」

どうしても書けない人にお勧めの練習法その1

誰もが始めやすいのは800文字作文です。

800文字作文はあなどれない

 

書きたい欲求はあるけれど、どうしても書けない。

原稿用紙に向かっても、パソコンに向かっても、スマホ画面を見つめても……書けない。

ならば、書けない自分を、書ける自分に変身させてしまいましょう。

 

誰もが始めやすいのは800文字作文です。

 

お察しの通り800文字で、朝日新聞の一面に掲載されている『天声人語』のようなコラムを書いてみるのです。

 

名文を書こうとして、筆を止める必要はありません。

どうせ誰も読まないのだ、というくらいの気楽さで、しかし本気で書いてみましょう。

 

テーマにも悩む必要はありません。

 

その日に見かけた人物の印象と、どんな人なのかの想像、ときには妄想でもいいのです。

その日に出会った猫のかわいらしさについて800文字を費やすのも悪くありません。

その日の出来事を書いてみるのも、面白いところです。

その日の風景でも構いません。

 

自分のことを書かなければ文章は上達する

 

コツがあります。

 

「私は……」

で書き始めないことです。

 

つまり自分のことは書かない。

これが鉄則です。

 

自分のことは、客観視しにくいのです。

自分のことは、今日でも、明日でも、あさってでも書けます。

 

そして大抵が、自分を書くとつまらない文章に陥ってしまうのです。

 

小学校の作文教育は、自分のことを書くように指導します。

 

これを真に受けて、文筆家や小説家への道は「自分のことを書く」からスタートするのだと誤解している人は少なくありません。

 

読みたくない本の代表は「闘病記」だと思うのは、私だけでしょうか。

 

自分を中心に置いて、書いて構わないのは、売れっ子作家と有名タレントだけです。

 

客観視こそが作家への道

 

800文字作文の効能は、客観の文章を書く稽古になる点です。

 

テーマをおさらいしておきましょう。

 

その日に見かけた人物 → 街ですれ違ったちょっと気になる人への想像。

その日に出会った猫  → どんな模様で、どんな仕草が可愛かったか。

その日の出来事    → パン屋の香りがどうだったか。駅にどんな人たちがいたか。

その日の風景     → 街に見つけた変化。たまたま見上げた月の形。夕景の色、その発見。
思ったこと、感じたこと。

 

800文字作文は、保存しておいて、数ヶ月、ときに数年後に読み返すと、作家としての実力がどう変化して、どう身についていったかを学び直す財産になります。

 

そして、絶対的な注意。
それは800文字以上を書かないことです。

今日は調子が良くて「すらすら書けるぞ」と思っても、800文字を超えてはいけません。
800文字以内に収めて、なおかつ、まとまりのある文章に仕上げることを心がけてください。

 

まとめ

強制的に「書く」ことを日常にとりこむ。

800文字作文は、毎日続けると、書ける自分が見えてくる。

「私は……」で書き始めない。

浦山明俊

【文章ノウハウVol.8】読んだ直後から文章が上達する プロの小説家が伝授する作文術「5W1H」

5W1Hは、本当に基本なのか

5W1Hは記事を書くときの基本だといわれています。

おさらいをしておくと、いつ(When)、どこで(Where)、だれが(Who)、なにを(What)、なぜ(Why)、どのように(How)という6つの要素から構成されています。

文章を書くときにも5W1Hを大切にしろと学校では教わったはずです。

 

5W1Hの本質とは

 

ある文章タイプにおいては正しく、ある文章タイプにおいては間違いです。

 

まず新聞記事などは5W1Hで書かれています。

 

ビジネス文書も5W1Hを基本に書くべきでしょう。

 

口頭で状況や事態を説明するときにも5W1Hは応用されます。

 

新聞やNHKで使われる5W1H

 

まずは5W1Hの文章を読んでみましょう。

 

<文例1>「昨夜、午前0時27分、東京都立川市にある立川中央病院で、俳優の三橋敏男さんが心不全のため亡くなりました。87歳でした。三橋さんは、白澤明監督の代表作『七人の浪人』に出演し、1979年にはカンヌ映画祭ではグランプリを、1980年にはベネチア国際映画祭で金獅子賞を白澤監督とともに受賞するなど、世界的に活躍をした俳優として知られていました。一昨年に肝臓にガンが見つかってから、入退院を繰り返し、闘病生活を送っていました。葬儀は……」

 

よく見かける記事です。よく読み上げられるニュース原稿です。

そして5W1Hのルールに従っています。

 

5W1Hを崩してしまえ

 

次の文章は、どうでしょうか。

 

<文例2>「訃報です。三橋敏男さん。昨夜、亡くなりました。いまこの訃報が世界中に伝えられています。それほどの大物俳優でした。87歳、闘病中でした。死因は心不全。ですが、2年前には肝臓にガンが見つかっていたんですね。立川中央病院に入院していました。思い出します『七人の浪人』。かっこいい時代劇でした。背が高くて、剣を素早く振り下ろして敵を斬る。白澤明監督の代表作です。世界の三橋、世界の白澤。年上の白澤監督よりも、若くしてこの世を去ってしまいました。カンヌ映画祭でグランプリ。これが1979年。ベネチア国際映画祭で金獅子賞。これが1980年。その後も2010年代まで見事な芝居を見せてくれました。葬儀は密葬だと発表されています」

 

声が聞こえてくるような文章だと思いませんか。

そして筆者の感情も乗って描かれていると思いませんか。

 

あなたが書きたいと思うのは、どちらのタイプの文章でしょうか。

 

じつは<文例2>にも、5W1Hのすべてが述べられているのです。

違うのは、その順番です。

いつ   →  昨夜

どこで  →  立川中央病院で

誰が   →  三橋敏男が

何を   →  人生を

どうした →  終えた(亡くなった)

どのように → ガンの闘病中に、心不全で

 

 

結論から書き始めよう

 

結論から文章は始まっています。、

「三橋敏男さんが亡くなりました」

 

工夫をしたのは、

「訃報です」

と、読者や視聴者を引きつける一文から始めたことです。

 

5W1Hは、「いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのように」の順番で書くと、伝達ミスの起こりにくい原稿となります。

 

言い換えれば、初心者でも、5W1Hの順番を守って書けば、誰かに叱られないで済む原稿やビジネス文書や、報告書が書けるということです。

 

5つのWと1つのHの順番を入れ替えても、伝達要件は満たすことができます。

 

結論(だれが/どのように)(なにを/どのように)から入り、読者を引きつけるであろう事項で作文していく。

 

筆者の考える重要事項の順番でも構いませんし、語りたい順番でも構いません。

 

欲をいえば、読者が魅了される順番に配列することです。

 

やんちゃ作家形式は魅力的だ

 

私は、文例1のような文章を「新聞形式の5W1H」と呼び、文例2のような文章を「やんちゃ作家形式の5W1H」と呼んでいます。

 

やんちゃ作家形式を身につけたいのであれば、トレーニング方法があります。

 

簡単です。

 

新聞記事をよく読んで5W1Hをまず理解します。

その5W1Hの文章を、自分の優先順位で、ときに私感を含ませながら、書き直してみるのです。

 

これはフリーライターにとっても、ブロガーにとっても、もちろん作家にとっても、とてもよいトレーニングになります。

 

まとめ

 

5W1Hは、情報伝達の基本となる文章の書き方である

5W1Hは、伝達のミスが起こりにくい

5W1Hは、無味乾燥な印象を与える

5W1Hは、自分なりにアレンジして書くことで、文体を磨くトレーニングになる

浦山明俊

【文章ノウハウVol.7】読んだ直後から文章が上達する プロの小説家が伝授する作文術「こそあど言葉」

こそあど言葉を書き直すと、読みやすい文章になる

 

そもそも指示代名詞って何だ?

指示代名詞とは「これ」「この」「それ」「その」「あれ」「あの」「どれ」「どの」ことです。

「こそあど言葉」なんて小学校では教えています。

 

<文例1>「信玄は諏訪の稲作の収穫量が低迷していることに頭を悩ましていた。①それはこれからも続くだろうし、②それらのことは国を治める大名としては当然、何らかの手段を講じなければならない課題だった。③それに応えようとしたのが、武田二十四将のひとり、春日虎綱である」

「それ」だけでもこんなにあります。

 

そして国語のテストは、こう問うのです。

問一 ①のそれは、何を指す言葉ですか。全文で答えなさい。
問二 ②のそれらとは何のことですか。全文で答えなさい。
問三 ③のそれとは何ですか。二十文字以内で答えなさい。

答え一 諏訪の稲作の収穫量が低迷していること
答え二 稲作の低迷だけではなく、国を治めるときの課題のすべて
答え三 信玄が頭を悩ましている様々なこと。あるいは稲作の収穫量を増やすこと。

 

作文自慢の人が使いがちな指示代名詞

指示代名詞を安易に使うと、読解力への緊張を強いることになり、読みにくく、そもそもけっこうな集中力を求めなければ、読んでもらえない文章になってしまうのです。

しかし作文が巧いと褒められた経験のある人たちのほとんどが、この指示代名詞を“誇らしげに”使いまくって作文します。

かつての僕もそうでした。いまでは反省しています。

 

<例文1>は、次のように書き直せるでしょう。

<例文2> 「信玄は諏訪の稲作の収穫量が低迷していることに頭を悩ましていた。収穫量の低迷はこれからも続くだろうし、豊作に導くことはもちろん、国を豊かにすることは大名として手腕を振るわなければならない課題であった。信玄の施政への悩みに応えようとしたのが、武田二十四将のひとり、春日虎綱である」

指示代名詞を使って書くのは、楽です。
指示代名詞を読み解いて、理解するのは苦痛です。

プロの文章書きであるならば、読者に苦痛を強いるのは避けるべきです。

原稿を書き終えたらまずはチェック

まず、原稿をひと通り執筆したら、文章の中の指示代名詞を探しましょう。

そして、例文2のように、指示代名詞を、具体的な名詞へと書き直します。

これを実践するだけでも、あなたの文章は格段に読みやすくなります。

 

まとめ

指示代名詞は「こそあど言葉」のことである。

「これ」「それ」「あれ」「どれ」のことである。

指示代名詞を使って作文するのは執筆者にとっては楽である。

指示代名詞の多い文章は、読者にとっては集中力を(だから読み飛ばされるか、読まれないかになる)強いられる。

指示代名詞を具体的な名詞に書き直すのは、読みやすい文章に改めるテクニックである。

浦山明俊

【文章ノウハウVol.6】読んだ直後から文章が上達する プロの小説家が伝授する作文術「する」

「する」は書かないように心がけよう

文章を書くときに心がけているのは安直に「する」と書かないことです。

「する」と書いてしまうと、意味が正しく伝わらないことがあります。

「する」と書いてしまうと、重たくて難しい文章になってしまうことがあります。

 

簡易だから多用される「する」

例を挙げましょう。

「する」の解決の文例も紹介します。

 

■開催する → 〇〇を開く

■交付する → 〇〇を渡す

■使用する → 〇〇を使う

■停止する → 〇〇を止める

■併設する → 〇〇を並べる

■確認する → 〇〇を確かめる

■出発する → 〇〇へ出かける/〇〇をあとにする

行為を示す名詞+「する」は、よく使われる表現です。

 

つい書いてしまいがちな「する」

それだけ書きやすく、表現しやすいと感じているので、つい「名詞」+すると書いてしまいます。

やまと言葉の動詞が存在するときには、そちらを使いましょう。

 

あっ、ほら。書いてしまいました。

 

■存在する → ある

 

ですよね。

 

やまと言葉の動詞があるときには、そちらを使いましょう。でした。

 

名詞+するは、官庁、役所などで多く見かける表現です。

 

「する」が日本語に根付いた理由

 

これは漢語が公用語だった時代の名残です。

 

江戸時代には、日本各地の各藩で話す言葉が異なっていた(方言)ので、文書の公用語として漢文が使われていました。

 

各藩の話し言葉の違いは、現代でいう方言です。

 

明治維新を迎えて、公用語は標準語にまとめられていくのですが、官庁の文書、役場の文書は、漢文筆記の名残から脱却できずに続いていました。

 

いや現代でも続いているのです。

 

短文で「名詞+する」と表現されるなら、誤解は起こりにくいのですが、「名詞+する」が連綿と連なって表現されると、ときには何を言っているのか分からなくなってしまうのです。

 

並ぶと分かりにくい「する」の文章

 

「先般の国際的紛争における我が国の対応については、閣僚と担当官庁との協議を行ったうえで、審議委員会を設立し、同審議委員会において、協議会を開催した後に、国会で審議するための報告を行う方針である」

 

いくつあるでしょうか。

 

そうです。「名詞+する」の表現です。

 

■協議を+行い(協議をする)→話し合う。

■審議委員会を設立し    → 話し合う場を作る

■協議会を開催した後に   → 話し合ったあとで

■国会で審議する      → 国会で調べ話し合う

■報告を行う        → どうなったかを伝える

 

書き換えれば、このように表現できます。

 

「今回、起きた外国とのもめごとを日本としてはどうするか。総理大臣と役人とで話し合ったうえで、もっと詳しく話し合う委員を選んで集めて、そこで話し合ってから、国会で法律を作るためのアナウンスをするつもりです」

 

お役所表現が現代でも息づいている理由は、

 

どうにも威厳がない。

分かりにくくても威張った表現を残したい。

言い直したり、書き換えたりする文章能力がない。

 

私たちは文章のプロです。なかでも作文のプロです。

イメージを具体的に読者に抱いてもらうためには、安易に「名詞+する」と表現してはいけません。

それでもつい書いてしまう「する」

 

どうしても必要な場面を除き、「名詞+する」の表現は回避するべきです。

 

あっ、ほら。書いてしまいました。

 

■回避する→避ける

ですよね。

 

ただし、「名詞+する」でなければ、どうにも表現できないケースもあります。

 

■電話する

■料理する

■掃除する

 

名詞+サ行変格活用のときには、言い換えをするよりも、「名詞+する」は自然に読んでもらえます。

 

まとめ

 

「名詞」+する をなるべく使わない。

「名詞」+するは漢語由来なので、やまと言葉に書き直すと日本語として伝わりやすくなる。

表現に威厳をもたせたいときには「名詞」+するを使っても構わない。

「名詞」+サ行変格活用のときには、するを使っても読みやすい表現になり得る。

 

浦山明俊