浦山 明俊 公式HP

Urayama Akitoshi

浦山明俊人生録⑧ –いま執筆者は、どうあるべきなのか –

57歳で就いたアルバイトの仕事は、ホテルの宿泊客のバイキング式朝食の食べ終えられたお皿や食器を、洗い場に運ぶ仕事でした。

イギリス式の教育を受けた僕は、ターンブル&アッサーの白シャツにトムフォードの黒蝶ネクタイをむすんで、姿勢を正して、笑顔で食器類を運んでいました。

とたんに、僕より年下と思われるオジさん主任から怒鳴られました。

「何を、偉そうに胸を張っているんだ。バイトボーイふぜいは、お客様と目を合わせないで、さっさと食器を運べば良いんだ」

「どうして笑っているんだ。だから仕事が遅いんだ。ニヤニヤしないで真面目な顔で働け」

おかしいな、と思いました。
欧米では服装と姿勢を正して、笑顔で宿泊客と接する。
僕の経験では、そうでした。

「目を合わせるな」「笑うな」というのは、かえって宿泊客に失礼です。

「これが、現代日本の働き方の基準になってしまっているのか」
と僕は、洗い場で怒鳴られながら、疑問符で頭の中がいっぱいになりました。

オジさんと僕のやりとりを聞いていた、副支配人が僕を手招きしました。

「浦山さん、あなたはクビです」

「ええっ!(コイツもそうか)」

「浦山さん、あなたは我がホテルで働くような人ではありません。経歴を調べさせてもらいましたが、あなたは作家じゃないですか。何があったのか分かりませんが、何があっても、あなたは小説を書くべきです。我がホテルで働く時間があったら、読者のために書いてください」

そして副支配人は言うのです。

「そして、いつの日か我がホテルに泊まりに来てください。お待ちしています」

なるほど、こういうホテルマンもまだ日本にはいるのだ、と思いました。

それでも、原稿料の下落で生活は窮状を極め続けています。

 

ビジネスとファッションについて講演

 

「スマホの普及が、ネット媒体が、ウェブが紙媒体を追いやったのだ」
と言う人もいます。

僕は「果たして、それだけが原因なのかな」と首をかしげます。

報道が、文化が、交流が、人としての在り方が、働くという生きがいそのものが、残念だけれど衰弱しているのではないか。マスメディアは犯人捜しをしている場合ではないと思うのです。

そんな時代に60歳を迎える僕は、これからも全身全霊で、求められるなら、ありったけの力を振り絞って、仕事をしていこうと思っているのです。

浦山明俊人生録⑦ – 小説家はゴールではなかった –

2006年3月に、初めての小説『東京百鬼』が祥伝社から出版されます。
僕は46歳になっていました。

その前から、ノンフィクションの書籍は世に出ていました。

僕の人生の目標は、小説家になることでしたから、夢はかなったことになります。

小説家としてデビューする年齢を僕はひそかに、計画していました。

陰陽道の占術で僕自身を占うと、25歳~45歳は大運天中殺なので、この期間に始めたことは破綻します。

天中殺とは「天が味方しない時期」です。空亡ともいいます。干支によって誰でも持っています。
十二支のうちの二支のどれかなのです。

僕は寅卯天中殺を持っています。寅年、卯年とか、寅の月、卯の月は「天が味方しない」のです。無理をして事を起こせば、その事は将来、破綻すると説かれています。

しかし実際は、運がない時期だと簡単に説明がつくものでもなく、天中殺の乗り切り方はその人の運命によって様々です。

大運天中殺は、120年のうちの20年間に巡ってくるものです。人間は120年も生きないですから、この20年間に遭遇しない人もいます。

僕は1983年(25歳)から2003年(45歳)までの20年間が、大運天中殺に見舞われる運勢だったのです。

なるほど30歳で出会って35歳で結婚しましたが、40歳で離婚を言い渡されています。

大運天中殺を自覚していたので、45歳以前に小説家としてデビューするのは意図的に避けていました。

小説『東京百鬼』の続編として『鬼が哭く』が出版され『花神の都』が『夢魔の街』が出版され、時代小説としては『噺家侍』が『かたるかたり』が出版されました。その他の寄稿、講演を数えたら、たぶんキリがありません。

小説デビュー作『東京百鬼』

 

2013年で55歳になるまでは、僕は全身小説家でした。
陰陽師も、医療ジャーナリストも、マスコミ対策コンサルタントも同時並行でこなしていました。

それなりに多忙で、年末年始も、ゴールデンウィークも、お盆も、クリスマスも、もちろん土日祝日も、たいていは仕事をしていました。

2014年か2015年あたりから、印刷媒体が手をつけられないくらいに失墜します。
僕は、かつては400文字原稿用紙1枚あたりの原稿料として4万円をもらっていました。
現在はテキスト6000文字を書いても2万5千円にまで原稿料は下落しました。

2015年の春には生活できなくなった57歳の僕は、アルバイト面接に落ちまくって、それでも都心のホテルのボーイに時給980円で雇われます。

浦山明俊人生録⑥ – 個人事務所イン-ストックは弟子養成所 –

1985年1月27日に、個人事務所であるイン-ストックを文京区本郷に構えました。

その頃には、僕には弟子が何人か入門していました。

小学生で教壇に立ち、高校で後輩の面倒をみて、朝日新聞社では教鞭に打たれた経験があったからでしょうか。
後進を育てるのは好きでした。

自分が食べられるかどうかギリギリの日常を過ごしていて、弟子を育成するのはリスクが大きかったです。

それでも弟子をとったのは、いくつか理由が挙げられます。

1つめは、弟子入り志願の連中の「どうしてもマスコミで活躍したい」という情熱にほだされたことでしょう。でも、それだけでは単なる僕の美談です。

2つめは、弟子入り志願の連中に原石として光るものがあった。その原石を磨いてみたいという僕の欲求です。
どんな人間に育つのだろうという弟子への興味です。

3つめは、自分を律することができるから。これが大きい。
弟子を育てるためには、まず自分がしっかりしていなければならない。自分が毅然としていなければならない。

自分が全力で仕事に立ち向かっている姿を見せなければならない。

個人事務所イン-ストックで執筆中

弟子たちの目に、しっかりとした浦山明俊を見せる。
そうすることで、僕は自分自身を律することができるのです。

まぁ、ときにはダメダメで、グズグズな浦山明俊を見せてしまうこともあるのですが。

イン-ストックは、文京区本郷から、文京区湯島へ移転し、さらに台東区東上野に移転して、イン-ストックは継続しています。

当初は弟子養成所みたいな事務所だったのですが、2000年2月に税理士にそそのかされて法人化してから、魅力的な人材が集まらなくなりました。

僕は一般常識だとか、社会のルールだとかに従ってはダメなんです。
小説家になったのは、どこか一般常識からは逸脱した僕の自己表現だったのかもしれません。

浦山明俊人生録⑤ – 朝日新聞記者から医療ジャーナリストへ –

朝日新聞社の記者になってみて、何より、ありがたかったのは午後出社しても怒られないことでした。
だって、編集部の皆様が午後出社だったりしましたから。

鬼軍曹のMキャップからは、ケチョンケチョンに叩かれました。

「お前の原稿は、文字ではあるだろうが、文章ではない」
それくらいの勢いです。

作詞家の経験も、フリーライターとしてある程度は自信を持っていた文章力も、奈落の底に蹴り落とされました。

Mキャップが恐ろしくて、廊下に出る前に階段のおどり場で、呼吸を整えていたくらいです。

キャップが主任か係長なら、デスクは課長、編集長は部長という理解でよろしいかと思います。

でも、編集長は僕からしたら社長よりも偉い、神様のような存在でした。

猛烈に企画を提出して、猛烈に取材して、猛烈に執筆する。徹夜当然、寝るなんてありえない。

血の小便が出ますよ、本当に。

いまだったら、厚生労働省から怒られるでしょうね、朝日新聞社が。

ブラック企業そのものと言われるでしょうね。

でも僕は「こここそが、自分が生きる場所」と懸命でした。

それはキャップやデスクや、ときに編集長が熱弁を振るって、僕に原稿の書き方を教えてくれたからです。取材のイロハを教えてくれたからです。

27歳のときに「花粉症」が日本中で猛威をふるいました。

現在では国民病として、それほど大騒ぎしなくなった花粉症ですが、1980年代には医者ですら、「何じゃ、この奇怪な症状は!」と治療法すら確立していなかったのです。

僕は「花粉症の謎を追え」とIデスクから命じられて医者、患者、製薬会社、厚生省(現・厚生労働省)を取材しまくります。

このときの経験と人脈から、のちに医療ジャーナリストとして仕事をする道に立ったわけです。

浦山明俊人生録④ -フリーライター盛衰記-

朝に起きられない。これはつらいものです。幼稚園でも、小学校でも、中学校でも午前中はどんな授業を受けているのか、まったく意識がないのです。居眠りこそしませんでしたが、ボーッとした子だったのは間違いありません。

就活なんかしませんでした。

会社員として働くことは無理なのです。朝に出勤なんてぜったいにできない。

僕は就職をしたことがありません。

午後から仕事が始まる編集のアルバイトをしながら、フリーライターを目指します。22歳のときでした。

作詞をしたのも、いつかは作家になるための準備だったし、フリーライターも何となく、作家への道が続いているような気がしていました。

編集者とライターは、似ているようで、まったく別の能力を要求されることを学びました。

とりあえずフリーライターになって半年後に、編集プロダクションを怒らせてしまって、『ABロード』とか『フロムA』とか『日本テレビ関係の仕事』とか、僕は一切の仕事を失います。

お金もなくなって、お昼に食パンを買い、夜まで食パンだけで食欲をしのぐ生活でした。

 

僕は全財産をはたいてバリ島に旅に出ました。

初めての海外旅行。当時は観光地化していなくて、夜は本当の真っ暗闇になる島でした。

沈み込んだときには、むしろ徹底的にさらに沈み込むと良いのです。

お金を得られなくなったときには、お金をはたいて、運勢の流れを変えるのです。

日本に帰った僕に、同じく編集プロダクションから仕事を打ち切られたK君が言います。

「朝日新聞社で記者を探しているけれど、試験を受けてみないか」

こうして僕は朝日新聞社の週刊朝日という雑誌の記者になります。25歳のときでした。

浦山明俊人生録③ -大学時代に作詞家になる –

國學院大学は、神主養成学校と陰口をたたかれる、渋谷の外れも外れの辺境に建つ大学でした。

ここでも僕は驚いたことがあります。
「はーい、今年の学生のなかで鬼や霊を観る者、手を挙げなさーい」
僕はおそるおそる手を挙げました。
「ふーむ、今年は少ないな……。いま挙手した者。あとで教授室に来るように」

そこで僕は、初歩的な霊の祓い方を教授から教わりました。

そして実際に、幼い頃から邪魔くさかった鬼や霊を祓うことができました。

これがのちに僕を陰陽師の仕事に就かせる、きっかけになります。

18歳の僕が、陰陽道を猛勉強したのは、言うまでもありません。

20歳で、英会話学校に通いますが、クラスメートに春日博文がいました。
カルメンマキ&オズのギタリストで作曲家です。

カルメンマキとOZ。41年ぶりの再結成(2018年)

 

僕は中学校、高校時代に書きためていた詩集を、春日に見せました。

幸運は突然にやって来ます。もっとも幸運を得るには、書きためておかないと無理です。

春日は僕の詩に曲をつけて、内藤やす子さんが歌うロックに仕上げました。

僕には大学2年生で「作詞家」の肩書きがついたのです。

ロックバンド仲間には、忌野清志郎、白竜、ラウドネス……。

いまから振り返れば、一緒の写真を撮るとかサインをもらうとかしておけば良かった。

でも20歳の僕には歌詞を書くのは仕事で、有名人に会っているという感覚はありませんでした。

僕の書く歌詞は、ボブディランと泉谷しげるの影響が残っていて、ようするに理屈っぽい人生訓とか、反戦歌みたいなのばっかりで、時代と反りが合わなくて、ほとんど、いや、まったく売れませんでした。作詞家人生は2年くらいでオシマイでした。まだ大学生だから危機感も浅かったですね。いまでも作詞の依頼はあるけれど、けっして受けません。売れっこないから。

さて、僕にはもう一つ困ったことがありました。

それは朝に起きられないクセでした。