國學院大学は、神主養成学校と陰口をたたかれる、渋谷の外れも外れの辺境に建つ大学でした。
ここでも僕は驚いたことがあります。
「はーい、今年の学生のなかで鬼や霊を観る者、手を挙げなさーい」
僕はおそるおそる手を挙げました。
「ふーむ、今年は少ないな……。いま挙手した者。あとで教授室に来るように」
そこで僕は、初歩的な霊の祓い方を教授から教わりました。
そして実際に、幼い頃から邪魔くさかった鬼や霊を祓うことができました。
これがのちに僕を陰陽師の仕事に就かせる、きっかけになります。
18歳の僕が、陰陽道を猛勉強したのは、言うまでもありません。
20歳で、英会話学校に通いますが、クラスメートに春日博文がいました。
カルメンマキ&オズのギタリストで作曲家です。
僕は中学校、高校時代に書きためていた詩集を、春日に見せました。
幸運は突然にやって来ます。もっとも幸運を得るには、書きためておかないと無理です。
春日は僕の詩に曲をつけて、内藤やす子さんが歌うロックに仕上げました。
僕には大学2年生で「作詞家」の肩書きがついたのです。
ロックバンド仲間には、忌野清志郎、白竜、ラウドネス……。
いまから振り返れば、一緒の写真を撮るとかサインをもらうとかしておけば良かった。
でも20歳の僕には歌詞を書くのは仕事で、有名人に会っているという感覚はありませんでした。
僕の書く歌詞は、ボブディランと泉谷しげるの影響が残っていて、ようするに理屈っぽい人生訓とか、反戦歌みたいなのばっかりで、時代と反りが合わなくて、ほとんど、いや、まったく売れませんでした。作詞家人生は2年くらいでオシマイでした。まだ大学生だから危機感も浅かったですね。いまでも作詞の依頼はあるけれど、けっして受けません。売れっこないから。
さて、僕にはもう一つ困ったことがありました。
それは朝に起きられないクセでした。