浦山 明俊 公式HP

Urayama Akitoshi

真夜中のベーシスト

北海道のベーシスト青年

彼の名前も、顔も思い出せません。

ベースのケースを背中に僕の家を出て行った朝のことをうっすらと思い出すばかりです。

その頃、僕は作詞家でした。いや作詞家気取りか。20歳でしたからね。
ということは、1978年あたりだったのか、あれは。

ハッちゃん。春日博文と出会ったのは、英会話学校でした。

「お前、何しているの?」

文学を仕事にしようと思っていて、小説や詩を書いていると答えたのでしょう、僕は。

そして書きためた詩を見せたのでした。

ハッちゃんは、プロの音楽家で『カルメンマキ&OZ』という伝説のロックバンドの作曲家でギタリストでした。音楽の世界では超有名人。

数日後には、僕の詩にハッちゃんが作曲をした歌が出来上がっていました。

内藤やす子が歌うという。これまた超有名歌手。

で、いつの間にか僕はプロの音楽業界に出入りするようになっていたのでした。肩書きは「作詞家」

赤坂の音楽スタジオで、収録があって、僕はブース(演奏家や歌手がいる録音室)の前のコントロールルーム(コンソールがあるミキサー室)にいました。

廊下からは、コントロールルームも、ブースものぞき窓から丸見え。
だから隠語で『金魚鉢』とその頃は呼ばれていたと記憶しています。

彼は廊下の外から、僕たちのいる録音スタジオを見ていました。

それこそ、両手を防音ガラスに貼り付けて、貧しい少年がニューヨークの楽器屋のショーウインドに飾られたトランペットを眺めているように。

僕が気がついて、彼をコントロールルームに招き入れたのだったか……。
その記憶すらない。本当に覚えていない。

彼は、興奮して、
「あのOZの春日さんですよね、ギター弾いている人。それに、うわぁベースは川上シゲさんだぁ。えっ、内藤やす子さんが今度はロックを歌うんですかっ」

そんなシーンがあったんだかなかったんだか。

覚えているのは、深夜に収録が終わって赤坂の街へ出たこと。

とっくに終電を過ぎていたこと。
彼がベースを背中に、僕の後をついてきたこと。
その頃は24時間営業のファミレスもネットカフェもなかった。

始発電車が走るまで、街を歩くか、道に寝そべるか。

僕は果たしてレコード会社が用意してくれたタクシーに乗ったのだったか。
自腹でタクシーをつかまえたのだったか。

彼は僕の後をついてきた。それだけは覚えている。
そして彼をタクシーに招き入れたんだったろうと思います。

僕は20歳の頃といえば、東京の下町の実家の四畳半に暮らしでした。

記憶では、いなり寿司を彼に食べさせた。

そこらへんしか覚えていない。

それから5年が過ぎた頃。 僕は作詞家をとっくにあきらめて、朝日新聞で記者をやっていました。

実家暮らしは続いていました。

真夜中に電話が鳴ったのです。

「あの……。浦山明俊さんですか?」

僕は疲れていたし、寝ぼけてもいた。

「そこに〇〇君はいますか?」

若い女性の声でした。

「いま〇〇君のお母さんが危篤で、すぐに北海道(帯広、釧路、小樽、旭川……?)に帰ってくるように伝えて欲しいんです」

ん……?。〇〇君って誰だ?。

「私は彼の幼なじみなんですけれど、〇〇君は音楽で成功して、日本だけじゃなく、世界に売れるロックバンドになって、お母さんにお金をたくさんあげるんだ。そう言って東京に行ってしまったんです。そのお母さんがいま危篤なんです」

どうして僕の電話(携帯なんて想像すらされていなかった時代の固定電話)を知っているんですか?

「〇〇君が私に手紙をくれたんです。そこには浦山さんのことが書いてあって“これで僕はプロデビューできる”って、浦山さんが作詞をしてくれるって。東京のアパートには電話がないから、これが浦山さんの電話番号だから、何かあったら浦山さんに連絡してくれって」

あっ!

僕は、そんな青年がいたのを思い出した。

「それで電話をしたんです。浦山さんだけが東京につながる唯一の連絡先なんです。本当に〇〇君はそこにいないんですか。明日、明日の朝に北海道に帰るように伝えてください。飛行機代は私が払うからって」

でも、僕は寝ぼけていたんです。

翌日の朝になって僕は『しまった』

と思いました。強く思いました。

電話をきるときに彼女の連絡先を尋ねるのを忘れた。

そもそも〇〇君は、あの5年前の夜に僕の部屋に数時間泊めただけで、それきり会っていない。

ああーそうだ、思い出した。断片的だけれど記憶が甦った。

「今度、俺たちの音源(曲のこと)を聴いてください。作詞をしてください」
「俺、ぜったいに成功する。カルメンマキとOZとか、RCサクセションとか、対バン(共演)しますよ。スタジオ代を稼ぐのに、昼間に建築現場でバイトしているんです」
「このフレーズどうですか」

そうだ、あの夜に。僕は疲れていたけれど、彼はいなり寿司を食べ終えて、僕の部屋でベースを弾いたんだった。

そして彼を始発電車に乗せるために、彼が不案内な下町の、地下鉄の駅まで送っていったんだった。別れ際に、僕は名刺を渡したんだった。

たぶん、何かあったら連絡しろくらいのことを言っちゃったんだ。
僕は20歳。彼は僕より年下だったのか、それとも年上だったのか。

僕は、いかにもプロの作詞家って雰囲気で20歳にしては大人びていたもんなぁ。

そして、それっきり会っていない。

しまった。幼なじみの女性の連絡先を聴かなかった。

〇〇君とは、連絡がつきましたか
〇〇君は、北海道に帰りましたか
〇〇君は、お母さんに会えましたか

そんな電話を彼女に返してあげるだけでも……。

いやいや、いつも僕はそうだ。

下町の人情だか、なんだか分からないが、他人のことに介入しすぎる。

優しくすることは、ときには残酷で、ときには無責任だ。

〇〇君の顔を覚えていません。名前も忘れています。

このコラムを書きながら、一生懸命思い出そうとするんだけれど、40年も前のことです。

受話器を握ったあの寝ぼけた夜に、彼女の連絡先を書き留めなかったこと。

それを僕は40年間ずーっと、後悔しているんです。

クリエーターにとっての風土は大事

東京人は東京を知らない

上京したばかりの人がなげきます。

「東京人は、道を尋ねても知らないと返事をして歩いて行ってしまう。冷たいのが都会人だ」

僕は、こう答えます。

「あなたが道を尋ねたのは、たぶんあなたと同様に、地方から東京に来た人です」

あるいは、こう答えます。

「東京に生まれ育った東京人は、自分の街を出ないから、他の街の道なんて知らないんです」

僕は浅草に生まれました。

そして三ノ輪という下町で育ちました。

 

渋谷に初めて行ったのは、大学受験のためで、その渋谷にある國學院大学に通う羽目になって、しげく渋谷をうろつくようになりました。

 

新宿も同様で、大学生になってから遊びに行くようになりましたが、お酒が飲めないうえに風俗に興味がない僕には、新宿はつまらない街でした。

 

大学を卒業してからは、渋谷にも新宿にも六本木にも、よほどの用事がない限り行きません。

 

東京は、町ごとがミニ独立国みたいなところで、自分の住んでいる町で、たいていの用事は済んでしまいます。買い物、外食、会合、祭り、初詣、そして住まうこと、暮らすこと。

 

小学校も中学校も自分の町にあって、徒歩で通えます。

 

僕にとって衝撃だったのは、地方に行ったときに、長距離を自転車通学している中学生を見たことでした。

 

広大な土地に、薄茶色に生えているものが稲で、米はそこから採れるということでした。

 

でも全国各地では、それが当たり前だと知ったときには、さらに衝撃を受けました。

 

はっきり言います。日本一の田舎者が東京人なんです。

 

知らないんですよ、他の街のことを、他の地方のことを。

 

たとえば職人や商人の家に生まれて、そのまま跡継ぎになった僕の同級生は、中野、荻窪、吉祥寺がどこにあるのかを知りませんし、世田谷区や杉並区が高級住宅地だとは、噂でしか聞いたことがありません。東京のあっち側を、知らないのです。

 

都内の会社に就職した友人は、かろうじて勤務先の街と、渋谷、新宿、六本木、池袋、銀座、日本橋に「行ったことがある」という程度です。

 

この文章を読んで、驚いている人がいるかもしれませんが、うなずいている東京人もいるでしょう。

 

「浦山君はさ、東京出身なんでしょう。どこの街?」

と、大学の同級生の地方出身の女子から尋ねられて、

「浅草」

と答えたときに、

「なーんだ。浅草かぁ。新宿とか銀座とかの都会だと思っちゃった。損したぁ」

と返答されたときには、がっかりしました。

 

東京=大都会 東京=繁華街 東京=お金持ち というイメージがあるらしいですね。

 

いまでこそ、浅草は観光地として復活しましたが、僕が大学生の頃はさびれていて、午後9時を過ぎると店舗は閉まって、夜道には犬が一匹、さびしげに歩いているような街でした。

 

その頃の渋谷も同様で、午後9時にはセンター街のシャッターはすべて閉じられていました。

 

現在の昼の浅草や、夜の渋谷を眺めると、隔世の感ありです。

 

僕が修学旅行以来、関西を訪れたのは25歳のときでした。

兵庫県の三田市にナビゲーションシステムの取材に行ったのです。

 

それからは全国各地、世界各地に出向きました。ほとんどが取材のためです。

日本で行ったことがない都道府県はありません。

 

生まれ育った風土からしか文化は生まれない

 

日本一の田舎者である東京人は、自分の町の文化しか知りません。

 

自分の町の文化。僕にとってのそれは「寄席」だったでしょう。

 

「落語は、笑点や、NHKの早朝の番組で観ているから、知っているよ。ユーチューブでも観られるしね」

と決めつけられると、僕はがぜんとして、

「それは違う。落語は、客席と高座に上がっている噺家とが共鳴して作り上げるライブだ」

とムキになります。

 

寄席まで、引きずり込んでやりたくなります。

 

でも江戸落語って、しょせんは東京の郷土芸能なんですよね。

 

僕の文体は、あきらかに落語の影響を受けています。

 

それは作家の持つ、風土ってやつです。

 

僕にとっての風土が落語だというお話しです。

 

青森に津軽三味線があるように、京都に祇園祭があるように、島根に石見神楽があるように、徳島に阿波踊りがあるように、福岡に博多どんたくがあるように、沖縄にエイサーがあるように。

 

自分が生まれ育った土地の風土をベースに、文化を大切にして根っこを生やさなくてはなりません。

 

小説でも、イラストでも、絵画でも、音楽でも、ダンスでも、自分の風土を大切にしている人は成功しています。

 

僕は東京のこっち側に生まれた者として、東京のこっち側の風土を常に胸に抱いて、作品を書き続けていきたいと思っています。

 

たとえ転勤族の家庭で、故郷がないと思っていても、その土地の空気を吸い込んだときに懐かしいと思えたら、そこがあなたの故郷なんですよ

浦山明俊

考えるスピードと書くスピード/万年筆

いまどき万年筆を使っているのは、いまどき懐中時計で時刻を確かめているようなものでしょうか。
執筆をするときは、パソコンを使います。スマホやタブレット端末も使っています。
それでも万年筆を使うのはですね

「考えるスピードと、書くスピードが一致する」

なおかつ

「思考をジャマしないで書くことができる」からなんです。

国産では、パイロット、セーラー、プラチナ、中屋、笑暮屋などを使っています。
海外製では、モンブラン、ペリカン、モンテグラッパ、ファーバーカステル、クレオスクリベント……一番出番が多いのは、パーカーです。

パーカー・デュオフォールド・インターナショナル。この万年筆を2本持っています。
これから書くべき原稿の、構成や筋書き(プロット)や情報をまとめるときには、万年筆です。
パソコンのテキストでは、これが上手くいかないんですよね。

思考って秩序立って、頭の中を流れますか?。

アレを考えたり、コレを考えたり。足りない情報を検索したり、まったく別のアイデアが浮かんじゃったり、思考って支離滅裂です。

紙に書きながら考える方が、キーボードを叩いたり、スマホをいじったりするよりも、僕には向いているのです。文字の大きさ、改行位置、強調、書き加えの記録が紙には痕跡として残ります。

とくに小説を書くときには、ぜったいに万年筆です。
もちろん、構成やプロットがまとまったときには、キーボードを叩き始めます。

 

書く前の準備段階では、万年筆なのです。
鉛筆やシャープペンだと、紙に微妙に引っかかります。
ボールペンだと、紙に押しつけて書く微妙な力加減が必要です。
万年筆だと、ペン先から流れるインクがすべるように紙に描かれます。

無駄な力は、どこにもかかりません。
ストレスがない。それも微妙で繊細なストレスがない。
手紙も万年筆で、したためます。

便せんは、クレインかロームかコンケラー、たまにスマイソン。
僕が初めて買った万年筆がパーカー。デュオフォールド・インターナショナルでした。
30年前で、たしか4万円だったと記憶しています。

パーカー・デュオフォールド・インターナショナルは廃番になっていて、復刻モデルのパーカーデュオフォールド・クラシック・インターナショナルは、現在は86400円のようです。

「そんなに高価な筆記具を使うなんて、高尚な趣味だ」
「金持ちを見せびらかしたいから、万年筆なんか使っているんだろう」
「プロの作家は、それだけ投資できるかもしれないけれど、アマチュアは100円ボールペンで充分だ」

それは正論かもしれません。
でも興味を引かれたら、万年筆を使ってみませんか。
お勧めは、パイロット万年筆の「カクノ」です。

定価は1000円+消費税。

千円とは思えない、書き心地です。
カクノを使ってみて、さらに心地よく書きたいと思えたら、それから上位ランクの万年筆にステップアップしてみるのも、一興です。ちなみに高い万年筆が、もっともっと書き心地が良い。なんてことはありません。

僕の使っているモンテグラッパの万年筆は、並行輸入品で489000円しますが、高額の理由は装飾の意匠で、10分の1の価格で買った、パーカー万年筆の方が、はるかに書き心地が良いです。

『スケートでリンクをすべる楽しさを知っているなら、あるいは想像できるなら、万年筆はあな

たの友達になってくれるでしょう』

料理って人間性を測るんです

僕のことを食通だと誤解している人がいます。
違います、ただ、美味しいものを食べたいのです。
麻婆豆腐を作るとき、僕はレトルトの中華のモトを使いません。
挽肉にニンニクと黒砂糖を混ぜ込んで寝かし、豆腐はスーパーではなく豆腐屋で買います。

さて調理開始。豆板醤(トウバンジャン)、甜麺醤(テンメンジャン)、豆鼓醤(トウチジャン)をベースに挽肉を炒め、八角を鍋に入れて基礎の味を作り、豆腐を投入し、ここだというタイミングで山椒、鷹の爪、さらにニンニク、火を止める直前に、10分以上は水に浸しておいた片栗粉をほんの少量入れて、火を止めてごま油を鍋のへりから流し入れて完成。

僕が作るとんこつラーメン

カレーライスを作るとき、僕はカレールーを使いません。
数種類のスパイスを組み合わせて、投入するタイミングと火加減に細心の注意を払って、チキンカレーやビーフカレーを煮込みます。その日のうちには食べません。
冷蔵庫で冷やし、取り出して鍋を火にかけ、また冷蔵庫で冷まします。
熱と冷とが織りなす浸透圧で、素材のとくに肉類の細胞膜が破壊されて、味がしみこむのです。

「お兄ちゃんの料理は、科学の実験みたい」

と妹に言われます。
なるほど、化学と生物学が好きだった僕は、そうした知識を料理に応用しているかもしれません。

浦山明俊流シャリアピンステーキ


僕の料理法を紹介すると、ずーっと料理をしているように思うでしょう。
でも、仕込みや煮込みに時間をかけるだけであって、実際にキッチンに立つ時間は15分程度のものです。IHの一口コンロしかありません。夢は広いキッチンを持つことです。

肉や、魚や、野菜や、果物を買うとき、選ぶときから料理は始まっている。

僕はファミレスには行きません。
僕は美味しくない外食店には入りません。
僕はチェーン店系和食店には入りません。

けっこうな金額を取るくせに、美味しくないからです。
僕の手料理の程度では、食べられない料理を食べるために外食します。

僕は弟子たちには、駄食はむさぼるなと指導します。
美味しくない料理を食べ続けると、心がすさみ、身体に不調が蓄積されるからです。

「浦山明俊の弟子になると、高級店に連れて行ってもらえる」

それは誤解です。
高級な料理ではなく、上質な料理を食べてもらうのです。
その経験から、仕事に生活に人生に何らかのヒントを得てもらいたいのです。

浦山明俊流トッポギ

 

京都に弟子を同伴すると『美濃吉』とか『下鴨茶寮』とか、教えたくない四条の隠れ家料理店とかに連れて行くのは本当です。

K君は『美濃吉』で、先付けの皿が運ばれて来たときに、

「あっ、これ。レイアウトの勉強ですか?」

と発言しました。
僕の意図を見抜いたこの弟子は、現在は朝日新聞出版の社員になっています。

『皿に器に盛り付けられるまでに、どれだけの仕事が注ぎ込まれているか、それを見抜き、しかし指摘しないで楽しく食べられる人をグルメと呼ぶのだ』

コーヒー好きです

僕がフレンチコーヒーを好むようになったのは、大学に入ったばかりの18歳のときでした。
渋谷の現在のファイヤー通りの近くに「レジュ・ドゥ」というコーヒー専門店がありました。
コーヒー豆は最初から茶色いと思っている人がいるようですが、獲れたてのコーヒー豆は白っぽいです。

これを焙煎(ロースト)するのです。豆を炒るわけですね。
炒る時間によって、ローストの状態は数段階に分かれます。

1、ライトロースト(Light roast
2、シナモンロースト(Cinnamon roast
3、ミディアムロースト(Medium roast
4、ハイロースト(High roast
5、シティロースト(City roast
6、フルシティロースト(Fullcity roast
7、フレンチロースト(French roast
8、イタリアンロースト(Italian roast

浅煎りがライトローストで、アメリカンコーヒーは本来このライトローストで淹れます。
深入りの、イタリアンローストは、エスプレッソなどに使われます。
僕の好みは「レジュ・ドゥ」のコーヒーによって、決定づけられたと言えるでしょう。

深入りのフレンチコーヒーしか提供しない専門店で、カップはロイヤルコペンハーゲンや、リチャードジノリ。梁は古い民家の柱だったと思われる濃茶の削り出し。
40年前のコーヒー1杯の値段は400円。カレーライスが300円で食べられた頃です。現在の価格にしたらコーヒー1杯で1000円くらいでしょう。

大人のコーヒー店といった雰囲気で、僕は通学のため渋谷駅で降りると、大学へは向かわずに、たいていは「レジュ・ドゥ」の木製の椅子に腰掛けて、文庫本を広げながら1時間、ときには2時間以上も、砂糖もミルクも入れないフレンチコーヒーを口に運ぶのでした。

カウンターにはYさんがいて、ドアを開ける僕の姿を認めると閑かに「いつものやつですね」とネルドリップでコーヒーを煎れるのでした。
コーヒーの煎れ方は、Yさんの手元をみて、よく観察して、いつしか自宅で自分で焙煎した深煎りのコーヒー豆をミルで挽いて、ネルドリップでふくよかな香りの一杯を楽しむようになりました。

ブラジルの街角で

 

現在でも、オフィスに訪問客がいらっしゃると、僕は自分でコーヒーを煎れます。
もっとも、ネルドリップは管理が大変なので、ペーパードリップに換わってしまいましたが。
カップはリチャードジノリのイタリアンフルーツ。
ジノリは2013年にグッチに買収されてしまいました。

僕のジノリのカップは30年前に揃えたもので「オリジナルだぞぅー」と自慢したい気持ちをこらえて、訪問客のテーブルにセットします。

他にも通ったコーヒー店は、表参道にあった大坊珈琲店。

ご主人の大坊さんは、小説家の池波正太郎さんと親交の深かった人で、文学と思索のためのコーヒー店という雰囲気でした。

ここもネルドリップでした。お湯を細い糸のようにネルのなかのコーヒー粒に落とし始めると、カウンター席に座る誰もが、大坊さんの一挙手を見つめたものでした。

眠くなる旋律のように、ネルに注がれる細いお湯の糸。
とたんに、ふわりとコーヒーの香りが広がる。サーバーに落ちていく黒に寄った濃茶の液体。
大坊さんは、コーヒーを煎れることで、カウンター席のお客たちを魅了したものです。

「どうぞ……

と大坊さんが、コーヒーを待つお客の前にカップを置くと、他の客たちは(僕も含めて)、心の中で拍手喝采を送ります。もちろん実際に声を挙げる人はいませんでした。
セロ弾きのようにコーヒーを煎れ、指揮者のようにお客たちを統率していた大坊珈琲店。
雑居ビルの2階。その雑居ビルの建て替えのため、このコーヒー店も無くなってしまいました。

僕がいまでも通うのは、神田小川町にあるボワシ・カフェ。
渋谷のレジュ・ドゥが閉店した後に、Yさんが開いたフレンチコーヒー専門店です。

神田神保町のトロワ・バグ。

大学生時代から、神田の古書店で古本を買うとこの店でさっそく読み始め、読み疲れるまでフレンチコーヒーを飲みました。現在でも営業しています。

湯島のフレンチ・ボーグ

フランス料理の店と勘違いする人もいるらしいですが、フレンチコーヒーを出すからこの店名なのです。

六本木のカフェ・ブンナ

やはり大学生の頃から通い続け、出雲大社東京分社の前に建つフレンチコーヒーの店です。

白金高輪のベル・エキップ

浅煎りコーヒーの美味しい店で、フレンチコーヒー一辺倒だった僕を開眼させてくれた店です。

値段が高ければ、美味しいわけではありません。
銀座のK珈琲店とか、Gカフェとか、都内に展開しているT屋とか、やはりチェーン展開しているカフェ・L・Mとか、値段ばかり高くて、不味いコーヒー屋もたくさんあります。


コーヒー店に必要なのは、お高くとまったコンセプトではなく、求道者のような職人が淹れてくれるかどうか、その一点なのですよ。

『片道2時間をかけても、どうしても飲みたくなるコーヒー店がある。恋人に遭いに行くように』

作家がスーツをまとうとき

作家がスーツをまとうとき

服飾の基本はスーツなのですが、いわゆるビジネススーツは着ません。
それが僕の自己中心的なTPOです。
表現者(作家)が、スタイルを持たないなんて、無責任だとまで、僕は傲慢に豪語しています。

基本はブリティッシュ(英国式)のセヴィルロウ・スタイル。
くだけた印象を身にまといたいときには、クラシコイタリア。
シャツはターンブル&アッサー(イギリス)かシャルベ(フランス)。
靴は、ベルルッティ(フランス)かステファノベーメル(イタリア)かジョンロブ(イギリス)。

 

アパレル業界に知人が多く、僕がファッション関係の仕事をしていると勘違いしている知人も少なくありません。

そもそも僕は幼少の頃に、浅草テーラーの仕立て(オーダー)服で育ちました。
冬はツィードの上着に、仕立てた白シャツに蝶ネクタイ。
夏はリネンの上着に紺色の半ズボン。
仕立屋のおじいさんはいつも僕に、三ツ矢サイダーを飲ませてくれました。

白シャツの両袖にカフリンクスを留めてくれながら、

「良いですか、坊ちゃん。この服を着たときには、大声を出してはいけません。お母様に駄々をこねてはいけません。道端に座り込んではいけません。背筋を伸ばして、物静かにお過ごしなさい。それがこの服を着る意味なのですから」

と教えてくれました。あれから50年以上、浅草のテーラーもなくなってしまいました。


おじいさんもたぶん、この世の人ではないでしょう。
ただ、いまでも上着に袖を通すとき、浅草のおじいさんのベストを着た白髪頭を思い出すのです。

『まず服装を正せ、次に言葉を正せ。成功への道が開ける』