浦山 明俊 公式HP

Urayama Akitoshi

浦山明俊人生録④ -フリーライター盛衰記-

朝に起きられない。これはつらいものです。幼稚園でも、小学校でも、中学校でも午前中はどんな授業を受けているのか、まったく意識がないのです。居眠りこそしませんでしたが、ボーッとした子だったのは間違いありません。

就活なんかしませんでした。

会社員として働くことは無理なのです。朝に出勤なんてぜったいにできない。

僕は就職をしたことがありません。

午後から仕事が始まる編集のアルバイトをしながら、フリーライターを目指します。22歳のときでした。

作詞をしたのも、いつかは作家になるための準備だったし、フリーライターも何となく、作家への道が続いているような気がしていました。

編集者とライターは、似ているようで、まったく別の能力を要求されることを学びました。

とりあえずフリーライターになって半年後に、編集プロダクションを怒らせてしまって、『ABロード』とか『フロムA』とか『日本テレビ関係の仕事』とか、僕は一切の仕事を失います。

お金もなくなって、お昼に食パンを買い、夜まで食パンだけで食欲をしのぐ生活でした。

 

僕は全財産をはたいてバリ島に旅に出ました。

初めての海外旅行。当時は観光地化していなくて、夜は本当の真っ暗闇になる島でした。

沈み込んだときには、むしろ徹底的にさらに沈み込むと良いのです。

お金を得られなくなったときには、お金をはたいて、運勢の流れを変えるのです。

日本に帰った僕に、同じく編集プロダクションから仕事を打ち切られたK君が言います。

「朝日新聞社で記者を探しているけれど、試験を受けてみないか」

こうして僕は朝日新聞社の週刊朝日という雑誌の記者になります。25歳のときでした。

浦山明俊人生録③ -大学時代に作詞家になる –

國學院大学は、神主養成学校と陰口をたたかれる、渋谷の外れも外れの辺境に建つ大学でした。

ここでも僕は驚いたことがあります。
「はーい、今年の学生のなかで鬼や霊を観る者、手を挙げなさーい」
僕はおそるおそる手を挙げました。
「ふーむ、今年は少ないな……。いま挙手した者。あとで教授室に来るように」

そこで僕は、初歩的な霊の祓い方を教授から教わりました。

そして実際に、幼い頃から邪魔くさかった鬼や霊を祓うことができました。

これがのちに僕を陰陽師の仕事に就かせる、きっかけになります。

18歳の僕が、陰陽道を猛勉強したのは、言うまでもありません。

20歳で、英会話学校に通いますが、クラスメートに春日博文がいました。
カルメンマキ&オズのギタリストで作曲家です。

カルメンマキとOZ。41年ぶりの再結成(2018年)

 

僕は中学校、高校時代に書きためていた詩集を、春日に見せました。

幸運は突然にやって来ます。もっとも幸運を得るには、書きためておかないと無理です。

春日は僕の詩に曲をつけて、内藤やす子さんが歌うロックに仕上げました。

僕には大学2年生で「作詞家」の肩書きがついたのです。

ロックバンド仲間には、忌野清志郎、白竜、ラウドネス……。

いまから振り返れば、一緒の写真を撮るとかサインをもらうとかしておけば良かった。

でも20歳の僕には歌詞を書くのは仕事で、有名人に会っているという感覚はありませんでした。

僕の書く歌詞は、ボブディランと泉谷しげるの影響が残っていて、ようするに理屈っぽい人生訓とか、反戦歌みたいなのばっかりで、時代と反りが合わなくて、ほとんど、いや、まったく売れませんでした。作詞家人生は2年くらいでオシマイでした。まだ大学生だから危機感も浅かったですね。いまでも作詞の依頼はあるけれど、けっして受けません。売れっこないから。

さて、僕にはもう一つ困ったことがありました。

それは朝に起きられないクセでした。

浦山明俊人生録② -高校時代-

秋川高校のメインストリート(2009年)

都立全寮制秋川高等学校は、イギリスの全寮制名門校イートン・カレッジをモデルにした本格的なパブリック・スクールを目指した男子校でした。僕はこの高校にどうにかすべり込みます。
敷地は東京ドーム10個分の広大なキャンパスでした。

全員で食事をとる食堂の他に、レストランがあり、喫茶室がありました。

規律は厳しく、たばこを吸えば、一度目で停学処分。二度目に吸えば即、退学処分でした。

外交官や駐在員や官僚の息子が同級生で、東京の下町の下駄屋のせがれなんて僕くらいでした。

世界中のエリートの息子が入学してくる。それは厳しい高校でしたが、驚いたことがあります。

同級生は“僕みたいなヤツ”ばかりなんです。

A君は、映画を語らせると誰もかなわないし、英語もペラペラ、イギリス文学を原書で読む。ところがサッカーの試合では、自陣のゴールにシュートを繰り返す。

H君は、数学と物理は教わらなくても難問を解く。ドラムスを叩かせると正確無比。趣味はモールス信号を打電すること。ところが文系はまったくできない。「あのさぁ、浦山。東大受験に国語があるんだよ。浦山はさぁ、たくさん本を読んでいるだろう。とりあえず何から読んだら良いの?」

僕は太宰治の『人間失格』を貸しました。

数日後、寮室で開かれていたサロン(文学や美術や映画を語り合う集まり)にH君は現れて、
「読んだけれど、矛盾だらけじゃん。主人公は自分を人間失格だと書いているけれど、これだけ文学年表にも記載される小説を書けるわけだろう。それは合理的に考えて作家として合格だということじゃん。論理的に破綻している。読むだけ無駄だったよ」

と僕に『人間失格』の文庫本を投げていったのです。

2009年の廃校式典に集った卒業生 ポロシャツの背中には、寮歌の前ふり言葉

S校長の言葉に、象徴されるこの高校における規律の正体が見られます。
夜行軍(深夜に敷地の外に出て山を踏破して帰校する)の催行前の訓示です。

「ケンカを売るヤツは最低である。ケンカを買うヤツはもっと最低である。他校の生徒から売られたケンカは絶対に買うな。ただし……、下級生が他校の生徒から、一方的に殴られているのを見過ごすようなヤツは、さらに最低である。退学処分を覚悟して、やるからには絶対に負けるな」

そんな教師や同級生に囲まれて、僕は高校3年生を迎えます。

担任の化学教師のN先生からは、
「東大は無理だとしても早稲田大学への合格は保証する。将来は作家になりなさい」
とまたも太鼓判を押されます。

ところが、早稲田大学も、上智大学も、青山学院大学も、明治大学も、明治学院大学も不合格。
滑り止めの國學院大学だけに合格します。

浦山明俊 人生録① -幼少期〜中学時代-

僕は、物心ついた頃から変な子でした。
ハイハイもつかまり立ちも遅く、言葉を発するのだけは早い赤ん坊だったそうです。

3歳の頃、母親に抱かれながら、電車に乗ると停車する駅名を次々と読みあげていたそうです。

たしかに幼稚園に入る頃には、本を独りで読んでいた記憶があります。

真ん中が僕。幼少期から常にオーダーメイド服

 

小学5年生と6年生のときには、担任教諭から指示されて、教壇に立っていました。同級生に『国語』や『社会』を教えていたんです。担任のW先生は、その空いた時間を使って教頭試験の勉強をしていたのでした。W先生は、
「浦山君は、将来は作家になるだろう。みんな作家先生から教わるつもりで勉強しなさい」

と小学校の同級生に演説したのです。
いまだったら、社会問題でしょう。でも昭和30年代って、そんな時代でした。

ところが困ったことに、僕は『算数』『図工』『体育』がまったくできない子でした。
そもそも「なぜ走らなければならないのか」と疑問を持っていました。

中学校や高校での『数学』は得意というか、好きで「因数分解」「方程式」「ベクトル」は解けるのに、四則計算でつまずいてしまうのです。足し算や引き算を間違えるのです。

 

たぶん小学6年生。オーダースーツ姿。

 

おかげで劣等生でした。
高校はどこを受験しても不合格になりそうでした。
中学3年生の担任だった、U先生は、

「全寮制の高校が都立にある。そこだったら図書館が充実しているから。私が推薦してあげるから、将来は作家になりなさい。キミ、国語だけはできるんだから」

と僕をそそのかしたのです。

こうして僕は、東京都立全寮制秋川高等学校に、入学し、入寮することになりました。

【文章ノウハウVol.1】読んだ直後から文章が上達する プロの小説家が伝授する作文術「単文」

わかりやすい文章の基本は、単文

よく「行間のある文章」を書きなさいと言われると思います。

小説などで「行間」を生み出すためには、単文で書くとよいのです。

では単文で書くと、どういう効果が現れるのでしょうか。

そもそも単文とは、どんな文章でしょうか。

みんながうっかりウソのある文章を書いている

 

<例文1>

彼は太くてたくましい手を私の肩に置いて「きれいになったね」と言った。

この例文は文法的にも正しいし、ウソなんかないように思われます。

しかし<例文1>だと、この文章の主人公である女性は、はじめから彼の手が太くてたくましいと知っていたことになります。文章のなかで時間は1秒も動いていません。

<例文2>

「きれいになったね」彼は私の肩に手を置いて言った。太くてたくましい手だった。

<例文2>のように書き直しました。この文章のなかでは、時間軸と空間軸が生じています。

「きれいになったね」とまず声をかけられて、彼女はハッとします。
肩に手を置かれるのはそれと同時か、声をかけられた一瞬の後のはずです。
彼女は視線を動かして、肩におかれた手を見ます。
そこではじめて、太くて、たくましい手だと気がつくはずです。

空間と時間が表現される文章

<例文2>は、時間軸と空間軸が描かれた文章だということになります。

時間軸とは(声をかけられてから、肩に手を置かれるまで)のことです。
空間軸とは(彼女の視線が自分の肩に移動して、太くてたくましい手だと気がつくまでの視線の距離)のことです。

(カギ括弧)の部分は書かれていなくても、読者は自然と、文章の外側にある時間や空間を想像します。これが行間のある文章の書き方です。行間のある文章では、文字としては描かれていない仕草や心理や時間の流れなどを描き出すことができるのです。

では行間のある文章を書くためには、どうしたら良いでしょぅ。

主語と述語をなるべく近づけ、修飾部は、文章の外に独立させる。
それだけで良いのです。

短い文章こそ、読みやすい文章だ

 

<例文3>
フェリーに乗る山内君から泣き声交じりの電話がかかってきたのは真夜中の三時を過ぎていた頃だった。

まず主語と述語を探します。主語はどの言葉だと思いますか。

山内君……×

フェリー……×

主語は「電話」で述語は「かかってきた」です。
同じように「フェリーに」が主語「乗る」が述語「電話が」が主語で「かかってきた」が述語です。
<例文3>を分解して主語と述語をなるべく近づけます。

<例文4>
電話がかかってきた。山内君からだった。泣き声交じりだった。フェリーの上からかけているという。真夜中の三時を過ぎていた頃だった。

<例文4>まで分解したら、文章を整えます。

<例文5>
電話がかかってきた。山内君からだった。泣き声交じりだ。フェリーの上からかけているという。時計を見ると真夜中の三時を過ぎていた。

どうですか。
あなたが筆者だったら<例文3>より<例文5>の方が、続きの文章を書きやすくないですか。

作文が上手い人が陥りやすい文法文章

このように主語と述語だけで成り立つ文章を「単文」と呼びます。

日本語の文章には、この単文と重文と複文の3つのパターンしかありません。

そして多くの「作文が得意」な人は、つい重文や複文を書いてしまうのです。

読みやすく、行間が生じやすい執筆方法は、「主語+述語」の単文で文章をつづる方法なのです。

私も小説を書くときには、基本は「主語+述語」の作文を心がけています。

ぜったいに必要なところ以外では、重文や複文の文章は書きません。

まとめ

文章を書くときには、単文で書く。

単文とは「主語+述語」だけで成り立つ文章である。

単文で描かれた文章には、行間が生じやすい。

行間とは、書かれていない時間軸や空間軸の発現である。

 

浦山明俊

歯切れの良い即答は、ときには危険

第48回衆議院議員総選挙(2017年10月22日投開票)は、小池百合子劇場でした。

都知事の職にありながら、国政の政党である希望の党を立ち上げて、かなりの議席を得るかもしれないと、自民党をも戦々恐々とさせていました。

開票結果は、希望の党は小選挙区で18議席、比例代表で32議席の50議席を獲得しますが、野党第一党は54議席を獲得した立憲民主党でした。

小池さんが知事を務める東京都内では希望の党は小選挙区で1勝23敗という惨敗ぶりでした。

希望の党が結党された当初は、小池旋風と呼ばれる社会的ムードもあって、野党第一党は確実だと言われていました。もしかしたら自民党を破って、政権を奪うのではないかという声までありました。

希望の党の、いや小池百合子さん個人の惨敗は、どうして起きたのか。

民進党と希望の党の合流で、一大勢力となるチャンスの時期に「民進党の全員を受け入れるわけではない」という主旨として、

「排除します」

と発言したあたりがターニングポイントであったと思われます。

政治理念が異なる民進党議員は受け入れないと言いたいのなら、

「ご遠慮願います」

と、遠回しな言い方をすれば、小池百合子さんのイメージダウンにはつながらなかったでしょう。

確認しなければなりませんが、おそらくは記者からの

「政治理念が違う民進党議員は、排除するということですか」

との質問に、「そうです」の意味での即答として「排除します」と答えてしまったのでしょう。

これは、取材記者がよく使うテクニックで「引っかけ質問」というやつです。

引き出したい言葉を、質問として投げかけるのです。

たった一言です。定例記者会見での、たった一言で小池百合子さんは国民からのSympathy(情緒的共感)を失ったのです。

元テレビキャスターである小池百合子さんにして、この失態です。

組織のトップが、リーダーがどのようにマスコミに対応するべきなのか。

それを考えさせられるクライシスでした。