『噺家侍』三遊亭円朝始末記その1

その綱の先には、後ろ手にしばられたままのお紀代がつながれていた。
「はぁう。あう、あう」
お紀代は円朝を見つけて、声にならない声を発した。
円朝はお紀代の目を見た。貧しい長屋暮らし。熱病で失った音と言葉。耳が聞こえないばかりに、母親を犠牲にしてしまった幼い日。それでも懸命に生きようと手折りの千代紙人形をこしらえてきたひとりの娘が、哀しい瞳を円朝に向けている。
円朝は、伊助の握る綱を奪おうと、駆け寄った。
ビュン。
浅黄羽織の一撃が、真上から円朝の左腕を狙った。
円朝は、すんでのところで腕を引き、その一撃をかわした。綱は奪えなかった。
「おい、円朝。貴様、刀も持たない丸腰で、どうやって女を助けるというのだ。刀を奪うにしても、ここには俺しかいない。それとも俺の刀を奪うとでもいうつもりで来たか」
円朝の胸元を狙った突きが繰り出された。円朝は斜めに体をかわしたが、歪曲した橋板に足をとられ、わずかに体勢を崩した。
「命、もらった」
浅黄羽織のニヤリと笑う顔と、突きから振りかぶり、上段に構えた刀身が見えた。
タッタッタッタッ……。
「師匠、刀だぁ」
吾妻橋の上を疾走してきたのは、守蔵だった。
朱鞘が満月に照らされて、吾妻橋の上を舞う。
守蔵は、朱鞘の刀剣を円朝めがけて投げたのだった。
体勢を崩していた円朝は、吾妻橋を浅草側に飛び下がると左手を掲げて、朱鞘を受けとった。
とっさに浅黄羽織は飛び下がった。抜き打ちの円朝の胴払いを避けるためだった。
円朝はその隙に立ち上がって正眼にぴたりと構えた。
ゴーン……。夜の四つを知らせる本鐘は、これですべて鳴り追えた。
その刻、四つ。二人が対峙する。
「ふふ、やっと面白くなっだぜ、師匠。なぶり斬りに、あの世へ送ってやるつもりだったが、貴様が刀を手にしたとあっちゃあ、いよいよ命の勝負だぜ」
狂気か鬼気か、喜んだような浅黄羽織の含み笑いだった。

『噺家侍』第18節「その刻四つ」より抜粋

著者回想/陰陽師石田千尋シリーズの担当編集者Mデスクの買い物に付き合いました。ポールスミスのスーツやシャツを購入したMデスクが「時代小説を書きませんか」とロゴ袋を隣の椅子に乗せて、コーヒー店でとたんに打ち合わせとなりました。僕の隣には弟子の佐宮圭が座っています。「浦山さんは江戸落語にめちゃくちゃ詳しいんですよ」この佐宮のひと言で、幕末に実在した落語家の三遊亭円朝を剣豪に仕立てた時代小説を執筆する運びとなりました。Mデスクは、別の出版社に転職してしまいましたが、今でもポールスミスを着ているのでしょうか。