記者魂 フィリピンから来た殴られ屋S

記者魂 フィリピンから来た殴られ屋S

それはバブル経済の頃だった

「試合をするために日本に来たんだよ」
と胸を張った。ボクサー、37歳。フィリピンの離島から日本にやって来た。

新宿のサウナ付きビジネスホテルに彼はいた。殴らた顔を腫らして絆創膏を貼っていた。

僕は、そもそも彼を取材のターゲットにしていたわけではない。
週刊朝日グラビア班キャップ、M鬼軍曹から、こう命じられたのだ。
「おい、浦山。公開スパーリングがある。ひまネタだが、取材に行って来い」

世界チャンピオンのH選手の防衛戦が予定されていてた。

新聞であれば、スポーツ欄に掲載されるかもしれない。
ましてスポーツ新聞なら、少しは大きく掲載されるだろう。

しかし週刊朝日である。
防衛戦にでかいアクシデントでも起きない限り、まずネタが活きることはない。掲載の予定はないが取材だけはしておく。大きな事件が記事にならなければ、その穴埋めに掲載する。
それがひまネタなのだ。

でも、ひまネタは真正面から探るばかりでは芸がない。
記者なら、ひまネタをチャンスに変えなくてはならない。

僕は、公開スパーリングをAカメラマンと取材に出かけた。

僕は気がついてしまった。

「あれ、フィリピン人のボクサーは、挑戦者の動きに似ているな」

メキシコの元チャンピオンの動きに似ていた。

しかも、徹底的に殴られていた。
日本のチャンピオンH選手がパンチの感触を確かめるために見えた。

その相手こそ、フィリピン人Sだった。いま新宿のビジネスホテルで僕の前にいる。

「殴られ役として日本のジムに雇われたのではないか」

しかし、ジムからタクシーに乗せられて去って行くSを追う記者はいなかった。

皆んなスパーリングを終えたHチャンピオンに群がって取材を始めた。

「手応えはいかがですか」

「日本の皆さんのためにも頑張ります」

ありきたりの質問に、ありきたりの答えが繰り返される。

公開スパーリングの翌日に、僕はジムの前で張り込みをした。

目当てはHチャンピオンではない。殴られ役のSだった。

今日もタクシーに乗せられて去って行くSの後を、待機させていたハイヤーで追った。

Sの後をついて行く。新宿のビジネスホテルのロビーで自分の気配を消しながら、Sの乗ったエレベータが9階で停まったのを確かめた。

いきなり押しかけ取材というわけにいかない。怪しまれる。

1時間ほど、新宿の繁華街で時間を潰し、和菓子を買った。

「あの、9階に宿泊しているSさんを訪ねてきた武術研究家です」

とホテルのフロントに取り次いでもらう。フロントの電話に出たSに英語で話した。

「合気道に関心はないか。僕は日本の武術を稽古している者なんだ」

Sの関心は見事にひっかかった。

僕は、9階の部屋にSを堂々と訪ねた。

合気道、柔道の技をSの身体に仕掛けた。

合気道は大学で体験学習をした程度で、柔道は高校の授業で習った程度だ。

「日本人は、誰でもマーシャルアーツを駆使するんだな」

と、Sはひときわ感心してくれた。和菓子を勧めた。これでうちとけた手応えがあった。

それまでの時間は15分もかからなかっただろう。

「なぁ、S。どうしてHチャンピオンのスパーリングの相手をするんだい」

「Hチャンピオンの国際試合の前に、僕もタイトルマッチを戦うんだ」

名もない日本人ボクサーとの前座試合のことだった。

「勝って、賞金をフィリピンの家族に持ち帰るのさ。妹夫婦に家を買ってあげられるかもしれない。僕も日本製のバイクを買えるかもしれない。そうしたら一生、お金には困らないからね」

フィリピンのジムに所属していたという。そのジムで日本行きの募集が貼り出された。

「チャンスだよ。僕は国際試合をするんだ。ファイトマネーをかけてね」

「Hに殴られまくっていたじゃないか。君の仕事なのかい」

「僕も勝つ。でもHにも勝ってもらわなきゃ。Hが勝つと僕のファイティングマネーは上乗せされるんだ。僕はメキシコの元チャンピオンの動きを徹底的にマスターしている」

そう胸を張った。

日本の経済は殴られ役ボクサーを海外から雇うほどに思い上がっていると僕は思った。

「なぁ、サンドイッチを食べるかい。僕は減量中だけれど、浦山に和菓子のお礼にサンドイッチをルームサービスしよう。よく女の子にもごちそうするんだ」

腫れ上がった顔に満面の笑みを浮かべてSは自慢げに言った。

女の子とは“ジャパ行きさん”と呼ばれている、フィリピンパブで働く女性たちだった。

新宿の街を歩けば、お互いにフィリピンから出稼ぎに来ている者同士はすぐに分かる。

Sは、そんなジャパ行きさんたちに声をかけて、ジムが支払ってくれる約束の、ホテルへの付け払いで、出勤前の彼女たちと故郷の話しを交わすのだという。彼女たちは、

「こんな立派なホテルに泊まって、ルームサービスをしてくれて、あなたはお金持ちね。日本でどんな仕事をしているの?」

その質問には答えないSなのだった。僕は、編集部に戻ると、

『Hチャンピオンの殴られ役』……所属ジムが来日させた無名ボクサーの安価で高額なファイティングマネー

そんな記事を書いて週刊朝日に掲載した。

ひまネタを、活きネタにしたのはうれしかった。

それは僕の武勇伝なんだけれど、そうたしかに記者としての武勇伝。

でも、どこかでSの帰国後を想う。彼は妹夫婦に家を買ってやれたのだろうか。

絆創膏に腫れた顔。僕が差し入れた和菓子を半分に割って口に運んだSボクサー。

フィリピンの街で、Sは日本製のバイクを走らせているのだろうか。

ちなみにHチャンピオンは、その防衛戦に負けたのだったと記憶している。

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